東京大空襲3月10日テレビドラマ・・その火の中に私もいた

確かに見た。黒い夜空の空中に炸裂する花火。赤い、そして太いしだれ柳となって広がって落ちてきた。モロトフの花籠、ばらまかれた38発のスナック・ナパーム焼夷弾。

テレビのシーン通り、その瞬間の情景が鮮烈によみがえってきた。

テレビでは焼夷弾が胸に刺さってのけぞって倒れるシーンがあったが、これはありえない。直撃されれば身体は吹っ飛んでしまっただろう。
何しろ、空から降ってきたのは長さ60センチ直径15センチぐらいの6角形の厚い鉄筒である。

だからアスファルトの道路に落ちたのは、パカーン!という、ものすごくどでかい乾いた音がした。我が家の前は市電が通る大通りだった。

向かいの家の軒下から火が噴出してきた。
パカーン。でかい音ばかり。人が走るが声は聞こえない。

逃げろ。逃げろ。
何しろ天から火が降ってくるんだから。天の声なんだ。
兄はトランク、わたしはリュック。母は風呂敷。妹はランドセル。

母と兄と妹、そして中学3年15才の私。兄は海軍兵学校に合格して江田島へ行くくことがきまっていた。妹は一週間前に学童集団疎開先から帰ってきたばかりの国民学校6年生。

夜中なのだが明るい。一塊になって逃げた。火のないほうへ。
いくばくかの空き地にたどり着き、一息ついて見回した。沢山の人と荷物、母が「ここは駄目!」 母は関東大震災の体験者であった。

頭によぎった。先日、爆弾が落ちて空き地となったところ。しかもそばに墓場がある。千住回向院の墓場である。そこへ!

途中、火の中をくぐった。だが炎は見えない、息が出来ない。煙? いや酸欠状態だったのだ。立って走ったら窒息してしまうから、腰をかがめ頭を地面にこするようにして走った。

テレビのシーンでは、立って走り身体に火がついて転げまわる人たちの姿が、頻繁に見られたが・・・。実際は、窒息か、二酸化中毒か、瞬時に倒れた人が殆どだったのではないかと思う。

「首切り地蔵の頭が紅の炎の中に燃え上がって見えた。土手上の枕木が火を吹いていて、向こう側の千住回向院の大地蔵の顔を浮き上がらせていたのだ。江戸時代の小塚原刑場跡、回向のための大きな石地蔵、通称首切り地蔵。その墓場の石塔に私はしがみついていた。火の粉混じりの突風が頭上に渦巻いていた。恐怖の一夜が明け、あるはずのない家路に向かう道すがら地獄を見た。馬が丸こげとなってひっくり返っている。人が虚空をつかんで黒こげとなっている。そしてあの空き地には・・沢山の人が重なってこげていた。我が家の焼け跡にたどり着いたとき、母が大声を上げて泣いたのを思い出す。」

かって書いた手記を読み返してみた。テレビのシーンとフラッシュバックして、あの悲惨な映像が鮮明に浮かび上がってきた。

「こととひばし」の惨状。
いくら「愛」をテーマにしたとはいえ、「君の名は」の「数寄屋橋」とは違う。この悲惨さの前に「愛」のテーマは吹き飛んでしまった。よくぞ画いた、と思う。

「もう殺さないで」と叫びつつ死んでいった人たち。
その後生き延びた被災者のそれぞれの人生。それは又別のドラマである。
私のようにただ生きてきただけの老人にも、孫が8人いる。あの時死んでいたら、この孫8人はいなかった、ということになるのも、人生だ。

それにつけても、無差別絨緞爆撃なるものを企画し実行したカーチス・ルメイ大将なる当時のアメリカ空軍参謀総長に対して、「我が国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」として、昭和39年12月7日、内閣総理大臣 佐藤栄作、そして裕仁大日本国璽入りで、「勲1等旭日大綬章」が送られている。

自国民が大量に殺されたその国のトップが、大量殺人の張本人に勲章。このなんとも不可解な馬鹿げた事項に関してテレビは全然触れていない。
10日当日放映されたドラマは少し触れていたが・・・。

昔のチャップリン映画のラストシーン。
「一人殺せば犯罪者だが、一万人殺せば英雄だ」。

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東京大空襲・・3月10日

私はただいま78歳の爺である。
つまり63年前の1945年3月10日は15才の東京府立第11中学校3年生だった。当時、毎日中学校へ・・ではない、国民総動員というわけでゲートル巻いて鉄兜を背負って戦車工場へ通学して戦車を作っていた。といっても資材がないからやる事がない。空襲警報が鳴るたびに防空壕に入ったり、解除されては工場内へ。という日を繰り返していた。

当然、工場の近辺に爆弾が落っこちた事もあるし、自宅の近所にも夜中に爆弾が落っこちて、すさまじい閃光と音響におったまげて縮みあがった事もある。
だから毎日鉄兜とゲートル巻き。そして毎晩着の身着のままでゲートル巻いて寝ていた。

3月10日。いや9日の午後11時頃、警戒警報、続いて空襲警報。起きて退避の準備。とはいっても着の身着のままゲートル巻きのそのまんまだから、じっと待つしかない。
そしたら間もなく、空襲警報解除。時間は定かではない。
ほっとして寝転んだ。・・・ところが・・・

突然、猛烈な高射砲の炸裂音とともにうなり声のような爆音が聞こえてきた。

おったまげて、飛び起きた。飛び出した。見上げた夜空に花火が上がっていた。
あとで知らされた、いわゆるモロトフの花籠。36発の焼夷弾が空中で花開いた瞬間を見たのだ。その時、空襲警報発令。なにがなんだか分からなかった。

事前に隣組やら防護団とやらで訓練を受けていたバケツリレーや火はたきなんて、思いも浮かばなかったし、どこに誰がいるのかも全然分からなかった。

それから、火の中の死に物狂いの逃避行が始まった・・・・

今晩9時から、TBSテレビで「東京大空襲・3月10日」と題するドラマがあるという。

なぜか、いやだ見たくないという思いがする。身に染み付いた「恐怖」からか・・・。

だが絶対に「忘却の彼方」などに行かしてはならない実録である。
がっちりと拝見して、己の体験を踏まえて思いを新たに、また綴ってみようと思う。

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映画とテレビと「天国と地獄」と「生きる」・・・映画今昔物語5

黒澤映画のリバイバルというテレビ2時間ドラマ「天国と地獄」「生きる」を二晩に渡って見させてもらった。

まず「天国と地獄」
9月8日午後9時2分。期待に胸を踊らせテレビの前に畏まった。ではなかった、寝床に横になって上目使いにスタンバイ。申し訳ない。

黒澤映画の「天国と地獄」は、言うまでもないが、1963年の公開。44年前の映画である。若かりし頃、胸しまる思いで見ていたものだった。

 (シナリオ)小国英雄・菊島隆三・久板栄二郎・黒澤明
この才人達が、旅館に合宿して数ヶ月、しゃべり、飲み、ごろ寝しながらシナリオを練り上げていった様子を、助監督の助手のそのまた助手の同輩から聞いた覚えがある。映画に限らず、すべての表現技法においてシナリオの良否は、その作品の良否を決定付ける最大の要素である。
黒澤監督の映画技法の凝りようは伝説的ともなっている。
ピ-カン待ちに10日、フレーム外のセット・小道具の気配り、何10頭もの馬を買い取っての訓練。撮影の予算や期間なぞものともしないその姿勢は、「黒澤天皇」と呼ばれて畏敬の眼で仰ぎ見られていた。
その「黒澤天皇」がもっとも力を入れていたのは、やっぱりシナリオだった。

 (出演者)三船敏郎・志村喬・仲代達也・香川京子・三橋達也・石山健二郎・木村功・加藤武・山崎勉・伊藤雄之助・田崎潤・中村伸郎・・・
何しろ44年前である,その頃の力の程は分からないが、名監督に育てられた結果でもあろう,今ではシリアスな実力派として知られている役者さん達である。なんとも懐かしい。だが、生存している役者さんは何人いるのやら。今昔物語ともなってしまった。

さて、テレビの「天国と地獄」
一言で言わしてもらえば、ガッカリ。予告編をいくつも出して宣伝していたけれど、過去の名作を汚してしまった、いや返って過去の名作をアッピールしたのかな。
鶴橋の脚色と監督。現在の時代背景と人間ドラマに仕上げようとした努力は窺えるが、比較されては致し方ない。
佐藤浩一、阿部寛、鈴木京香・・・現代の実力派がそれぞれ力演はしていた。
橋爪功、泉谷しげる、津川雅彦。こりゃなんだ?視聴率稼ぎにたった数シーンで、リハーサルもしないで引っ張り出されたんだろうけど、ベテランがセリフもろくに言えやせん。役者さん達が気の毒にもバカに見えた。

次に「生きる」
9月9日午後9時2分。期待に胸は踊らなかったが、あの感動した懐かしい名シーンがどう再現されるか、そんな興味で寝床にひっくり返って上目遣いに拝見した。申し訳ない。

黒澤映画の「生きる」は、言うまでもないが、1952年の公開、56年前の映画である。若かりし頃、胸しまる思いで見ていたものだった。
 (シナリオ)橋本忍、小国英雄、黒澤明
 (出演者)志村喬、日守新一、千秋実、田中春男、金子信雄、中村伸郎、藤原鎌足、左ト全、宮口精二、渡辺篤、伊藤雄之助、小田切みき、浦辺粂子。なぜかここには三船敏郎は出ていない。

役者さんを皆な書いちゃったのは、黒澤映画の常連となった、この懐かしくもすばらしい、役者根性を持った人たちは皆な死んじゃっているから。「小田切みき」は生きているのかな?素人が抜擢されて出演し、以後、役名そのままを芸名にしたと聞いている。

さて、テレビの「生きる」
これまた言うまでもない。これはほとんどオリジナルの設定。だからなおのこと落差が目立った。あの「オデッサの階段」のような歴史的な名シーンとなっているはずの「公園のブランコ」。「ハッピーバースデイ」「お清めの席」。とてもじゃないが戴けない。白けてしまった。

松本幸四郎。・・・漫然と流れ行く人生、人の「生きる」ことの意味を問う・・・。
渋く抑えた名演技なのだろうが、こんな頭のよさそうないい男が、もともと漫然と市役所の隅なんかに沈んでいるんだろうか。なんて思ったり、現代の名脇役、岸部一徳、北村一輝、渡辺いっけい、西村雅彦、ユースケサンタマリアなどが、可哀相に祭壇の前で飲みながら、わけもわからず右往左往している。と思ったりした。

無理もないのだ。才能は勿論だが、金と時間を無視した黒澤天皇の映画と、圧縮制限された金と時間、おまけに視聴率というお化けに浸蝕されているテレビドラマが、太刀打ちできるわけがない。

シナリオの土台作り。各部所の根回し。リハーサル。それぞれのエキスパートが時間と金をかけて準備をして、監督が纏め上げていく。総合芸術ともいわれる映画。いわゆる「準備」が80%ともいう。もっともこの「準備」の大切さは映画に限らず、あらゆる「仕事」にあてはまるのだが。

テレビはこの「準備」が徹底的に不足している。時々刻々に換わり行く「放映」に追っかけられて、やっつけ仕事も多くなる。
この際単純な進言。もう過去の名作映画のリバイバルは作らないこと。

追記
9月12日午前10時?安倍晋三さんが、美しい国の「天国と地獄」を「生きる」事が出来なくなって、総理を辞任、病院に入院されたとの緊急報道。ご冥福いやご快復を祈りたい。

次の総理。党利党略・自己保全・利権栄達の政治の世界で・・・「生きる」とはなんだろう・・・とあらためて自らを問うことの出来る人物はいないのだろうか。

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「青春残酷物語」ヌーベルバーグ・・・映画今昔物語3

ヌーベル・バーグ
1960年代、クラシカルな名画を輩出したフランス映画界でジャンルック・コダールを筆頭とした若い映画監督達が巻き起こした「新しい波」のことである。
当時の映画は、かってのアラカンの「かつどうやは思想なんかあらせん、面白かことやったろか、だ。」の言い草どおり、ハッピーエンドがお定まりの陽気で楽しい娯楽映画が主流だった。
そんな娯楽映画に真っ向から反発し、悲惨な現実や社会に目を向けたシリアスドラマを、新しい作風で展開した映画が、ヌーベルバークと言われて、この’60年代に世界的に流行した。

松竹ヌーベルバーグ
『新しい波』が日本の映画界にも波動して、その先陣を切ったのが、当時「松竹」に集う吉田・篠田・山田。そして大島渚。
デビューしたばかりの若い監督達がこの波を見過ごすわけがない。そして「松竹ヌーベルバーグ」と言われた、そのトップバッターが大島であり、そのヒット作品が
「青春残酷物語」であった。

青春残酷物語
ストーリーは言うまでもないが、若い男と女のセックスと懊悩と反逆の末、病みつかれて自殺し殺される。熾烈で悲惨な内容の青春像を、新しい技法を駆使して画いていた。当時の若者達にとって、まさに刺激的な映画であった。そして私も当時の若者であった。

青春残酷物語ロケ地「新宿」
内藤新宿甲州街道・・日本橋から新宿、高井戸、八王子方面へ続く、江戸五街道のひとつである。
この街道に面していて甲州口ともいっている新宿駅南口。ここを出て左に行くと線路を下に見る陸橋のだらだら坂を降りて行くことになる。
この坂を下から上に向かって歩いてくる若かりし桑野みゆき、河津祐介のカップルをカメラを担いで歩きながら撮影していた。
カメラの移動はカメラを台車に固定して台車を動かすのが当然である。
カメラを担いで後ろ向きに歩いて撮影するなんて、「新しい波」の表現技法の一つと考えたのだろう。
当時の若者であった私は、そのロケにバイトとしてどこかに居た。結構はっきりと記憶している。

内藤新宿甲州街道
新宿駅南口を左へ向かい、内藤新宿甲州街道のだらだら坂を降りきったところに都立新宿高等学校がある。
私は昭和27年にこの新宿高校定時制を卒業した。入学は昭和23年、当時この甲州街道を京王電車が市電のように走っていて、伊勢丹近くの新宿3丁目に終着始発駅があったので、ごとごと走る電車の脇を歩いていた。
またその脇の道路の手すりにもたれて客を呼んでいた当時パンパンと言われた女達が居た。
定時制だから午後5時半始業、まだ客引きの相手の男が居ない街道で女達にとっては、17・8才のガキは格好のひやかし相手となっていたようで、必ず絡まれたものだった。
焼け跡のまだ埋めやらぬ戦後間もない新宿である。パンパンも夜学生も社会を恨む前になんとかして生きようとしていた。

新宿高校定時制
久しぶりに「二三四会のお誘い」があった。昭和23年C組に在籍した、パンパンにからかわれた夜学生の「成れの果て?」のクラス会である。
シナ・満州・朝鮮・台湾へと、八洸一宇の名の下に遠く海外に移住させられていた引上者。戦犯といわれて処刑された父の子。戦災孤児。少年兵。何かしら当時の歪みを食らってしまったガキ達だった。
新制高校となってしばらくして、男女共学となり、新宿にあった内閣府統計局に勤務する少女達が大挙して入学した。
中学卒業で就職した彼女達を統計局が定時制に進学することを奨励したそうである。
そして、地の利もあってか、夜学校の在校生は1000人を超えた。当時おそらく日本一の夜学校であったろう。
だが、入学時は学年に250人はいた学生が卒業時には100人程度になっていた。ろくに食い物もない時代である。昼間は働き夜間は学ぶ4年間の学業は結構苦行であったのだ。

青春残酷物語・・・このフレーズは、この時代の青春を象徴しているようである。
だが・・・あえて言いたい、闇成金と言う言葉はあったけれど、みんなが貧乏だったこの時代は、明日を信じて生きられる時代だったのだと。
二三四会の「成れの果て」の面々も、苦節50年、今や立派な一家言を持つ城主となっている。
私達の青春の象徴であった新宿高校定時制はこの2007年をもって生徒募集を打ち切り在学生の卒業の2010年3月をもって閉課となることが決まったと言う。夜学生の入学志望者は居なくなったのだ。現代はヌーベルバークの時代を超えてはるかに豊かな時代となっている・・・と思いたい。

現代の青春・・・ビルが立ち並ぶ新宿の繁華街の行き届いた施設と、あふれんばかりの豊かな物品の中で、たむろし徘徊する若者達。
物でも女でもほしいものすべて金で買えると豪語するホリエモン。
漫画喫茶に6年間も寝泊りしている若者。
この格差社会の若者達は「明日の時代」をどう見ているのだろう。

「青春残酷物語」とは、いつの時代でも象徴的なフレーズである。






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「7人の孫」・・・映画今昔物語2

私「たそがれ映児」には「7人の孫」がいる。ということは映画マニアの老人である、ということ。そしてなんとも貧弱な発想のもじりである。
そう、黒沢明監督作品「7人の侍」は文句なしに面白かった。

「三四郎」「酔いどれ天使」「生きる」「羅生門」「悪い奴ほどよく眠る」「天国と地獄」「夢」「影武者」・・・黒沢作品は、ほとんど全部,観た。
1951年、「羅生門」がベネチア国際映画祭でグランプリを獲得、日本映画が世界から注目される先駆けとなった。
そして「7人の侍」・・・その娯楽性、今で言うエンターチメントは完璧ともいえるくらいである。マカロニウェスタン「さすらいのガンマン」。アメリカウェスタン「荒野の7人」。ともなって世界中を駆け巡った。

「酔いどれ天使」の医師(志村喬)のせりふ「仁義なんてえのは悪党同士の保障条約だ」。そのラストシーンの卒業証書。
「生きる」のブランコでの”命短し恋せよ乙女”。そのラストシーンのバースデイソング。
この、黒沢監督の初期作品で激しく燃え上がっていた、社会と人間を追及したシリアスな作風は、「7人の侍」あたりから変わってきたようである。いや、がらりと変わったと言えるだろう。

今は昔、映画科の学生だった頃、市川昆先生の講義を受けた時「映画とは?」という質問に、先生は「娯楽である」と答えられたのを覚えている。
映画とは「社会と人間を啓蒙し文化を培う芸術である」というようなお答えを期待していた若い学生にとっては、甚だ不本意なお答えだったのを覚えている。

木村千依夫先生のシナリオの講義では、「どんなドラマの展開であっても最後には”救い”がなければならない」といわれていたのを覚えている。

「7人の侍」は面白かった。
「娯楽」・・・「救い」・・・完璧なまでに込められていた。そしてまた、その中にひそやかに埋め込んだ真摯な人間や社会への目線。
黒沢監督は歳を経て、心象を秘めながら、より円熟した映像表現を求めて進化していったのだ。

私も、歳を経て、なんて比較にもならないが・・・、「7人の孫」を得て、たそがれの時代となってようやく分かるようになった。
楽しく笑って過ごそうじゃないか。真摯な目線を持ちながら・・・自信なんかないけれど。

映画:「よく分からなくても素晴らしい芸術作品というのはあるかもしれない。でも、観客が笑わないけれども素晴らしい喜劇というのはない。・・・僕にとっては、映画賞を頂くことは、失礼だけど、それほど有り難味はない。満員の観客の中で笑い声を聞くと言うのが、何よりも大きなご褒美でした」・・・・山田洋次監督。

「笑い」の難しさ。大切さ・・・・。

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「たそがれ映児」・・映画今昔物語1

敬愛する山田洋次監督作品。
「たそがれ清兵衛」「隠し剣 鬼の爪」「武士の一分」
原作 藤沢周平
山田監督:「藤沢さんは決して権力者を描かず。民衆を見つめています。その    作風が好きで旅行に出るときなどごく自然に手にとって読んでいました」
まさしく山田監督作品は、そのまんまの作風である。

:「たそがれ清兵衛」は日本アカデミー賞で、最優秀作品賞、同監督賞を含む12部門を制するなど、映画界の賞を総なめ。さらに、受賞は逃したが米アカデミー賞外国語映画賞。ベルリン国際映画祭コンペテイション部門の候補作にもなり、国際的にも高い評価を得た」:(読売・時代の証言者より)

映画作りの志。入社試験の難関突破。シナリオと助監督修行。そして・・・
「下町の太陽」から「家族」「幸福の黄色いハンカチ」[学校」「「男はつらいよ」「武士の一分」・・・と数々の名作。そして・・・次なる「母べえ」。

現役の映画人第一人者。山田監督。昭和6年生。
満州からの引揚者、辛酸をなめながら、あのどんでん返しの世の中から一筋の志を貫いて這い上がってきた人

だからこそ楽観的なおしゃべりの中に民衆の視点を土台とした、したたかさがある。

この私、「たそがれ映児」は昭和5年生。
今は昔。映画にあこがれて、まだ焼け跡のまだらに残る、新宿・池袋・浅草の映画館街をさ迷い歩いていた。
挙句の果ては、いっぱしの志を立て、日大芸術映画科シナリオコースなるものに入学した
戦災で焼け出された貧乏人だったので、高い入学金は、金目のものは売り払い、借りまくって捻出した。

以来50年。
山田監督は、映画人生を貫いて、人々に笑いと感動を与えてきた。
片や「映児」はせめてもの印刷屋。

人生とはこうも違ってくるものか。
だが「たそがれ映児」も、未だに映画の夢を追っている。
映画今昔物語・・・として、いっぱい書きたいことがある。
・・・だから、まだまだ続く。「乞う、ご期待」・・・なんていえるわけはないけれど。

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いまどきの名前事情・・豊臣秀吉

豊子、臣子、秀雄、吉男・・・豊臣秀吉と言ったらみんな来た。

そんな昔の喜劇映画があった。後に続くは信長と家康。言うまでもなく、信子に康二。

貧乏人の子沢山と言われた時代の寸劇である。http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/11903620

私の妻は桃子。旧姓菊池桃子。どっかで聞いた名前である。

だがこっちのほうが先だ。
親父さんから、丁度庭に桃の木を植えた年に生まれたから「桃子」にした・・と聞いた。
たいした根拠はない。なにしろ7人の子のうちの5番目だった。

名前は時代を象徴すると言うが、あの時代にこの名前とは、なかなかの親父さんだったと今にして思う。

私の子供はみんな一字。
40年前の洋風、当て字のはしりであった。

シン、ケン、ユミ。
その頃、私も若かった。


確かに名前は時代を象徴する。
私の父は、道三郎、祖父は、助佐衛門。


孫は、流(りゅう)、丈(じょう)、暖(だん)、春(はる)、・・・・・。
まだまだいるのだが・・やめておく。貧乏人の子沢山だから。

祖父から孫にかけて約100年。

名前と言えば、国民総苗字令なるものが発布されたのが、明治3年と聞く。

当時、田んぼの中にいるのだから田中、山の中だから山中、と当時のアイデアで着けて言ったらしい。

しかしそのまた昔は、氏姓なるものがあったのだが、時の権力者の施政の身分階級の維持のために・・とかによって、平民は名字帯刀は許さず、となっていたらしい。

いずれにせよ、名前だけにも面白い歴史があり、昔からこんなところにも政治権力の姿がある

今日安倍政権が発足したと言う。

小泉さんご苦労さんでした・・・と。小泉さんの功は言うまでもない。

罪を問いたい。他国との軋轢。弱肉強食のこの格差社会。規制をはずし自由競争こそ時代の活力として、信念のもとに突き進めたのだと言う。

だが、自己の信念、信条とは?

国民が総理に求めたのはその人の信条ではない。あえて言えば、国民を思う滅私奉公の心情である。

勝ち組を助長し、負け犬を見捨てる。

このことを自覚している今度の方は、「再チャレンジ」なる言葉を使っている。
期待していいのだろうか?

貧乏人の子沢山は、今やあってはならない。子育ての支援をもっともっとしなければならなのだ。

子供の名前を考えるしわわせ。

それには、まず子供をつくらなければ・・・お若い方々頑張ってください。

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