2009年8月20日 (木)

ゼロ戦と恐竜

暑い。

爺さんは山へ。
綺麗に整地された上野の山には柴はなかったが、根岸国民学校卒業生の爺にとって、故郷の山は有難きかな、と勇んで歩いていた。

婆さんは川へ。
翠の大樹が続く並木通りは、木漏れ日を通した陽射しがキラキラと波打って光り、湯気をはらんだ川のようになって、「桃」がドンブラコ、ドンブラコと流れていた。
婆さんは昔から「桃子」という。

息子夫婦と孫3人、柴刈爺をひきつれた「桃」が目指したのは、「鬼界が島」ならぬ「国立科学博物館」。もっとも、爺婆にとってはやっぱり「奇怪が島」であったが。

「国立科学博物館」。昔懐かしいレンガ造りの建物が厳存していた。今時の高層ビルに比すべくもない3階建て。そもそも、建物は地べた20坪の3階建てより、60坪の平屋のほうが高級なのだ。

ありがたいことに65歳以上の老人は無料という。
改札口で「お歳は?」「1930年製。このビルと同じ」「はあ、まだまだ持ちますよ」
気のきいた山彦。
「次は証明になるものをお持ち下さい」「顔見れば分かるでしょ」「キマリですから」
やっぱり律儀なお役人だった。

地球館「地球生命史と人類」。日本館「日本列島の自然と私たち」。

限られたスペースで見事に配列された展示品。写真撮影・携帯電話・順序など殆ど自由で、多くの子供達が、歩き、写し、書き、話をしていた。
なによりもITシステム。ボタンを押せば、モニターが光り・動き・話し・指導する。孫達は片っ端からボタンを押しながら自由にに走り回っていた。
「お手手繋いで」の爺婆の心配をよそに、親達はケイタイで集まれといえばいいんだと、心配する気配もない。

いつしか爺婆は「ゼロ戦」の前に立っていた。今日、孫を連れきた息子が、孫の年頃に一緒に立っていたこの場所。見上げれば、ラバウル沖の海底から引き上げられたというゼロ戦が、長い歳を経て、なおその雄姿を見せていた。

この場所に孫達はいなかった。
同じ頃、別室の巨大な空飛ぶ恐竜を見上げていた。

70年前のゼロ戦が飛んでいた空に、思いを馳せる老人。
1億年前の恐竜が飛んでいた空に、思いを馳せる幼子。

その老人と幼子が一緒に並んで歩く帰り道。長いサイレンが鳴った。
「あれ、東京ではお昼にサイレンが鳴るの」幼子は一斉に「はらへったー」

本日、8月15日。
佇んで黙って頭を垂れる爺婆を、幼子達は不思議そうに見上げていた。

8月15日の由来を話して聞かせながらの親子3代団欒のランチ。
ありがたきかな平和。

精養軒のハヤシライスは、うまかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月14日 (金)

パソコン来たり。さらばワープロされどワープロ。

ブログ。
ココログ参加当初の頃は、脱兎の如く書き進み、日々楽しみにしていた。
今や、今年になってこれで4回目。亀の歩みとなってしまった。

「諸般の事情」といいたいが「パソコン不調」が主因。
無精者の錯覚とはいえ、万能自動記録装置として頼り切っていたパソコンである。
しかも、このパソコンそのものに、すこぶる愛着があった。

このパソコンは5年前のある日、息子が「もう間に合わないかもしれないが」と言いながら持ち込んだパソコンである。いまさら始めても死ぬまでにマスター出来ないだろうというわけだったが、思えば、この「パソコン来たり」の日は、私の第2の人生の記念日となった。

その昔、若い頃、ガリバンヤをしていた。
板状の鉄板に鑢目をいれて木枠にはめ込んだものをガリ板といい、そのガリ板の上に蝋紙を置いて鉄筆でガリガリと引っかきながら字を書いてゆくガリバンヤである。
蝋紙に鑢と鉄筆でミシン目のように穴を開けていくわけで、その蝋紙の上にインクをつけたローラーを転がして紙にプリントしていく。これを正式には孔版印刷と言った。
こんなものでもエジソンの発明と言っていた。どんなものでも、発明ということは大したものだと思わねばなるまい。

ガリバンヤは率のよいアルバイトで、そのお陰で大学は出たけれど、転々として幾星霜。又いつの間にか印刷屋。その間、印刷システムは、このガリバンからタイプ、テープ、ワープロそしてパソコンへと進化していった。
展示会で初めてワープロを見た時には、一体どうなっているのだと本当にポカンとしてしまった。35年前の話で1台290万円。その頃、一応印刷会社の部長であった私の給料は15万円だった。

その印刷会社は、お役所の請け負いをしていて、そのお役所の印刷現場でワープロ4台をお神輿のように並べて、ゼロックスの社長とお役所の局長の臨席のもとにテープカットのセレモニーが行われたのを覚えている。

いざ出陣、ところが扱える人間が全然いない。ベテランのタイピストを口説いて教習所に送り込みシステム構築に懸命に取り組んだ。
そして印刷屋にとってワープロは神様となっていった。

その神様も今やパソコンに席を譲って「さらばワープロ」と殆ど岩戸にお引きこもりになっている。
だが、「されどワープロ」。印刷屋を自営して30年の私の手元には、キャノン最後のワープロ1990年製「CanoWord NX750」が未だ現役で活躍している。

かたや、息子が持ち込んだ記念すべきパソコン。老いぼれてきたのか居眠りをするようになってしまった。買い換えが一番だろうが、愛着の余りに散々いじくった挙句、単純にメモリを増設したら居眠りしなくなった。

神様、ありがとう。

さあ、味を占めたぞ、今度は、この老いぼれた私の頭にメモリを増設してみよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年8月13日 (木)

定額給付金、消えた年金。化けて出た !

後期高齢店主の文具屋。
昔ながらの何でもや文具店。だからコピーもやっている。このところ定額給付金で毎日ひっきりなしに、コピーコピー。

通帳と健康保険証か運転免許証。確かに書いただけでは間違いがあるけれどコピーなら間違いない、というお役所の知恵らしく、おかげで商売繁盛。
1回10円だから30人で300円。まあこれは正直いささか面倒だけど・・・。

定額給付金、国債発行追加15兆円。だが、反対していた連中も、もらえるとなれば反対しない。ましてや後期高齢者、どうせ先が無い。あとは野となれ山となれ。ありがたいことと喜べばいいと、コピーコピー。

そこでもうひとつ、ありがたいお話をお伝えしておこう。

07’年、メディアの格好の材料となった消えた年金。全国津々浦々大騒ぎしていた状況は
知っていたが、他人事と思っていた。ところが・・・

08’年、社会保険事務所から電話があった。「貴方の年金が発見されました」。
60年前に「大日本時計(シチズン)」に1年3ヶ月勤めていた、と言うのである。
完全に忘れていた。

終戦直後、飢餓地獄さながらの当時の社会で、生活に追われて懸命に働いていた労働者は、遠い先の年金のことなど、誰も考えていなかった。

09’年4月15日。
「国民年金・厚生年金初回支払い額のお知らせ」と称する封書が届いた。
精密と言っていいのか、何枚にも亘って数字が細かく記載されていて、老人の頭ではさっぱり分からない。
だが、要点は年金は5年で時効。但しこの場合は時効無しの特例で、初回として近々加算5年分を支給し5年以前分は追って支給すると言うものだった。
法律とはややこしい、ご苦労様な話である。

流れ流れて幾星霜。1年5万円の加算年金が、過去60歳より現在79歳の老人には、どのくらいの金額なのか。計算はお任せする。

ありがたいことである。生きていてよかった。
同じ様な事がこの間死んだ友人に起っていた。

お若い方々、年金は納めておいたほうがいいよ。
国敗れても、軍人恩給を支払っている国なのだ。きっと支給してくれるよ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月24日 (火)

お彼岸のUNKOとUKON

春のお彼岸。「本日休業」の札をドアにぶら下げてお墓参りに出かけようとした。

「この店ウンコ売ってるよ」通りかかったガキが大声を上げた。
当店は健康食品ウコンを売っているのでウコンと大きな字のビラが貼ってあった。

そうそう、去年の秋のお彼岸の墓参り。

息子の家族、孫共々総勢8人、でかい車でご先祖様に会いに出かけた。
箒目のついた境内、隅々まで清掃された墓地、磨かれた墓石の前に供え花。

昔、墓地には防空壕が掘られ、墓石は柱となり、卒塔婆は燃料となった・・・・

そんな思いが頭をよぎる爺をよそに、孫どもは、水をかけ線香を捧げながら、はしゃぎ廻っていた。
突然・・「くさい! くさい!」・・・「ウンコ踏んじゃった」。

爺婆も乗っけてやるんだからと、若造サラリーマンの身で、でかい車を買ったばかりだった。
その新車にウンコを踏んだ足ではいられてはたまらない。しかもゾロゾロと4人も。
お墓参りにイヌを連れてきた人を呪いながら、懸命に息子と嫁は4人の足と靴を洗っていた。
帰りの車の中で、孫どもの大合唱
「ウンコふんじゃった。ウンコふんじゃった」。
苦りきった息子に、ばあさんが言っていた。
「皆に運がついたんだよ」。

なんて、クサイ事件を思い出したが、話したいのはウンコの話ではない、ウコンの話。

ウコンの効能については、今更言うまでもない。
クルクミン、ターメリック・・・腎臓・肝臓強化、糖尿病予防・・・等々。

酒飲みのこの爺が、その効果にハマッテしまって、自分の店で販売を始めたのが5年前。
以来、結構多数の方にご利用していただいている。

薬じゃないから「効く」とはいえないし、「効き目」はすぐには分からない。
長くとりつづけていると、体が感じてくるのだ。
だから、ご利用の方々は既に幾星霜もの顔馴染みとなっている。

こりゃ、自分がハマッテいるのだから口上がきりがない。
詳細はマイショップHP http://kotaka.warabi.biz

さて、次は春のお彼岸の墓参り。

お供え物として「おはぎ」をもって出かけた。
今度は、アンコである。
ウンコがウコン。ウコンがアンコとなった。
そこでまた・・・・・。

長くなるので、お次の話としよう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月18日 (水)

ホームページ設立ジタバタ奮闘記

このブログには大分ご無沙汰してしまった。
実は年末の忙しさに加えて今度こそホームページを立ち上げようとジタバタしていた。「趣味人倶楽部」という「高齢者SNS」に参加して、これが結構楽しいので気をとられていた、という事もある。
元祖であるこのブログを、おろそかにしてはならない。と、気を取り直して、まずはHP設立ジタバタ記。

今年正月。漸く念願のマイショップ・ホームページが設立された。

3年前、ホームページビルダーをインストールしてヨーイドン。
各地の商店街から聞こえる恨み節。当地も例外ではない。大店に押しつぶされて生きるすべを失っている小さな店でも、少しでも活路を求めてIT社会へ。インターネット参加への志を抱いたのは、この時代むしろ当然であろう。

楽天、ヤフー、新興サイトからいろいろ誘いがあるけれど、何しろ街の小さな店。丸抱えで契約するには大層な金がかかる。第一、店にITが分かる人間が居なければ、連携にしても維持にしてもどうにもならない。といってITエンジニアの担当者などおけるわけがない。

というわけで老骨に鞭打っての必死のヨーイドンとなったわけである。
けなげにも生涯大学のお勉強とも考えて、懸命にホームページビルダーのマニュアルに取り組んだ。

ココログが元祖だから当然niftyにお世話になることにして登録申請。
ありがたくもhttp://homepage3.nifty.com/kotaka/とURLを頂いた。
さあ頑張るぞ!

ポータル、サイト、ページ、リンク、エフェクト・・・・
悪戦苦闘、なんとかポータルと営業形態を一応掲載したところで 息が続かなくなった。老人の生半可な知識で追いつけるわけがなかった。最初の意気込みはしょぼくれてきて、途切れ途切れとなり、ついに諦めて放置状態となってしまった。

助け舟が現れた。お隣といっていいくらいの近所で、地域密着ホームページ作成支援サービスと銘打ってサイトを立ち上げた若者が現れたのだ。
大学院卒、富士通関係でITシステムを経験して独立した若者だった。渡りに船。
しかも、ここだけの話しだが、1番だから料金を負けてくれるという。

そこで新たにホームページを立ち上げてもらった。

http://kotaka.warabi.biz/

やはり若い力は素晴らしい。格安の月額費用でありながら、新進気鋭で懸命、豊富なIT知識で面倒を見てくれる。
近所という利便性もある。地域密着型のサービスサイトの有効性はこれから認識されてくるに違いない。
この若者のサイトをご参考までに記載しておく。

http://www.total-office-net.com

期せずして、ホームページが二つ出来た事になった。今後残り少ない人生ながら奮励努力して、アイテム選別などで両立させたいと、贅沢な思いをさせて頂いている。

  

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年11月17日 (月)

年賀葉書印刷

年賀葉書印刷。

映画「3丁目の夕日」に出てくる街の小さな印刷屋は、活字を組んで手作業のテキンという印刷機で一枚一枚印刷していた。

父ちゃん母ちゃんの家内作業の手間賃稼ぎ。

だから大手の印刷会社は、年賀印刷なぞ見向きもせず、お義理のサービスとして受けたものを下請けにやらせていた。

だが、小さな印刷屋にとっては、有難いボーナス仕事であった。

それが、このパソコンの普及、IT時代となって、マスメディアにのった年賀印刷は、労少なくして功多しのおいしい仕事として、大手の印刷会社がシステム化、コンビニやスーパーを窓口として街の小さな印刷屋の仕事を吸い取ってしまった。

誰やらが唱えた、規制緩和、弱肉強食の自由競争、その結果の格差社会の一例ともいえよう。

この恨み節。
うなる資格を持っている私は、つまり街の小さな印刷屋のオヤジである。

街の小さな印刷屋として40年、さすがに活字やテキンは、長い間有難う、と処分した。

パソコンやプリンタはつい最近出てきたばかりである。
我輩!は40年のキャリアを持つ印刷屋である。

と、わが身を嗾けながら、今やパソコンとプリンタを駆使?して、今回も年賀印刷を承わっている。今年はお客様がどれだけ来てくれるだろうか、と思いつつ。

ところが・・・小さな印刷屋は昔ながらの職人仕事、個人の好みに合わせたきめ細かいご注文には、もともと応じて来たことだが、これがマスメデアには出来ない。これが見直されてきたのだろうか。

そしてまた、個人作成は、趣味で作るのは別として、印刷屋に頼んだほうが安い計算になる。ということなのか。

常連のお客様は死なない限り毎年必ず来てくれている。
だが、新しいお客はこないので毎年減っていくと半ば諦めていた。

それが・・・増えてきている。

元気が出てきた。
年賀の作成。プリント。ご予算。その他・・・。
何でもご相談をお受けしたい。ご連絡あれ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月30日 (木)

コスモス・・・・旧立川陸軍飛行場

今時の電車は、至極快適。その快適電車の青梅特快に新宿駅から乗車して30分、西立川駅に着いた。
コスモスの昭和記念公園。駅のまん前から陸上橋で公園入り口まで直結されている。

快晴に恵まれた秋の一日。入場券売り場には長蛇の列。大人400円、子供80円。国立公園だから安いことは安い。そして・・・広い。何しろ飛行場だったんだから。

旧陸軍立川飛行場。1922年、帝都防衛構想の中核として設立。民間飛行場としても利用され、東京~大阪の日本初の定期航路、そしてあの神風号の出発地ともなった、という。

神風号。特攻隊ではない。
1937年、東京、ロンドン間を100時間を切る世界記録を達成した朝日新聞所属の民間機である。
当時、日本中で大騒ぎしていた様子が眼に浮かぶ。小学校一年生であった。束の間の平和のひと時、ヒーローとなった飯塚操縦士という名前も記憶にある。

立川飛行場は、もともと帝国陸軍飛行場である。
戦争末期にはB29への体当たりを目指した、神風ではない震天という特攻隊が編成された、という話も聞かされた。

そして戦後。
アメリカ空軍立川基地。フインカム基地。砂川事件。横田基地設立・・・。幾多の変遷を経て、1977年、日本政府に返換。跡地の東一帯は立川防災地域として自衛隊をはじめ防備・防災関係の各官公庁の施設が設立された。
飛行場の跡地の中央部に、昭和天皇在位50年を記念して作られたのが国営昭和記念公園というわけである。

コスモスの丘は一番奥。とにかく流れる人の波について歩いた。
結構広い。これが、かっての飛行場の一部だというから、飛行場とはどでかいものなんだなと感じつつ、同時に昭和の森となったどでかい木々は、当時はなかったはずだと、戦後の歴史を感じたりもした。

コスモスの丘。色とりどりの花の絨緞が一面に敷き詰められている。
一本ではか細い花も、群生すれば周囲を圧する見事な存在感。自然を生かす手入れも大変だろうと感じつつ満喫した。

やっぱり陸軍飛行場よりも、コスモスの記念公園のほうがいいのは間違いなかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年10月22日 (水)

コスモス・・・ケイタイとサイフ

天高く馬肥ゆる秋の一日。

私は馬年でメタボ。天高くなくとも肥えている。妻の名は、どういうわけか、桃。馬と桃が、コスモスランク・ワンレベルの昭和記念公園に向かって勇んで出かけた。

電車で新宿経由で立川まで。今時の電車はすこぶる快適である。

終戦直後。
メインの山手・中央・京浜東北各線は確保されてはいたが、車両が空襲で焼けて徹底的にたりない。しかもガラスがないから窓はただの穴。穴だらけの車内は鉄がないから板でやたらと打ちつけての補強。ドアもないから板を横に打ちつけて下からくぐって出入りしていた。
地震で揺れる古い家屋のごとくグラグラときしみながら、走っていたオンボロ電車。

そんな想い出をたどりつつ、いつしか眠ってしまったらしい。
「本日はJR東日本にご乗車くださいまして有難うございました」とアナウンス。この電車の終点は新宿。これから乗り換えである。

ホームで見渡すと、桃がない。車内に眼をやるとポツンと鎮座している。
「オイ降りろ!」と叫ぶと、飛び出して言うには「何でここで降りるのか」・・・?
新宿の手前の池袋だった。あわてて又電車に飛び乗った。

「ご乗車有難うございました」のアナウンスのせい・・年寄は人のせいにしてよいのだ。
とにかく、冷や汗をかくくらいあわてた。

だって、馬はケイタイなんて持ってないし、サイフも持ってない。桃とはぐれたら行き倒れだ。

新宿駅で降りての乗り換え。迷路のごとき駅構内。
馬と桃、爺と婆は手を繋いで歩いていった。人前で手を繋いで歩く・・・なんて初めてだが、必死の思い。その思いが通じたらしく、親切な若者に教えられ、快適新鋭電車、青梅線特別快速に乗車、立川へと向かった。

インドアではケイタイもサイフもイラナイ。

アウトドアでは、馬と桃。爺と婆。
ケイタイとサイフ。持つべきか、持たざるべきか。

Tobe Or Not Tobe
目下苦脳中である。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年9月 8日 (月)

消えた年金発見始末記

通知を受けて、社会保険事務所に出向した。

爺婆同伴。この歳になると2人で1人前・・・にもならないが。

浦和社会保険事務所だから、当然の如く浦和駅で降りて歩いていったら、いつまで歩いてもない。通りすがりの若い綺麗なBGに聞いたら北浦和駅だとの事。年金手続きに昔何度か行っていたので、知ってるつもりの思い込み。

「思い込み」。歳をとるとこれが多い。それを気がつかずに年寄りは事があると、やたらと人のせいにする。
浦和事務所がなんで北浦和なんだ、と。私はそんなことは言わない。
自分で反省しているのだから、まだ私はましな年寄りだと、これまた自分で弁解しつつも、気みじかの婆さんの怒ること。

婆さんだけではない、年寄りは大概気が短い。何しろ先がないから。
そこで、「3時間待ちの手続き1時間」と言うメディアのご託宣を、自分に言い聞かせて、それこそ日帰り旅行のつもりで婆さん共々のご出向となったわけだ。

受付の綺麗なお姉さんの親切な事。
広くもないビルの案内図を渡され、チエックされた部屋に入った。がらんとした部屋にお年寄りが10人ほど、1階のロビーには人が一杯いたけれど、ここは
静かな雰囲気で、待たされる事もなかった。

そうだ、調査依頼や説明を求めにきた人と、通知を受けて手続きにきた人とは応対方法が違うのだ。

メディアの言う「3時間待ち」とは前者の人々。予約受付は出来ない、予約だと3カ月後どころか、いつになるか分からないから。
早いもんの順に並んで待つ。有名ラーメン店とおんなじだ。
なるほど、これは現況では仕方ない、と納得。

結果を聞いて驚いた。年6万円の加給、18年間分の追加支給が100万円余。60年前のたった1年間の加入記録が発見された、という事だけの結果である。しかも当人が忘れていた事を見つけてくれた結果で、「消えた年金」騒ぎがなかったらそのまんまだったろうと、感謝すべきだと思った。もっとも誰に感謝すべきか分からないが。

私は商売人で、頂いている年金は国民年金が主体で、同窓の会社定年退職者よりはるかに少ない。もし消えた年金が国民年金だったら1年間位では「屁のツッパリ」にもならなかっただろう。

同年輩の知人達の年金受給月額を問うと、夫婦で50万。一人でもW加給で30万。高級支給で25万。標準20万。国民年金満額6万5千。標準3万。そして0。

それぞれの過去の実績がどうであれ、現実の老人社会には、ものすごい格差がある。これから老人になる人たちよ、これでいいのか。

「消えた年金」を騒ぎ立てるよりも、年金制度の根本的な制度改革こそ重要なのだ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年8月31日 (日)

「あなたの年金記録が発見されました」

今日、社会保険事務所から電話があった。

「調査の結果、氏名不詳の年金記録のなかに、あなたの厚生年金の記録が発見されました」

60数年前、戦後間もない東京がまだ焼け野原だった頃、田無町の大日本時計という会社に2年間勤務していたという記録である。

私は、まだ呆けてはいないぞ、と日頃我が身に言い聞かせながら威張ってはいるが、完全に忘れていた。

たしかに私は60年前、大日本時計に勤務した。17歳。東京大空襲に焼け出され、医者だったオヤジも死んで、着の身着のままとなって東京府立中学3年を中退し、見習い工として時計製造工場に勤務した。

畑と野原のだだっ広い平地の中に、頑丈なコンクリート平屋造りの工場が10棟程並んでいた。戦時中は軍儒工場で時限爆弾装置や機関銃の玉を作っていたので、防空壕のようなつくりの地下には破壊した工作機械と機関銃の玉が山積みとなっていた。
そんな所にもぐりこんだ私ら少年工は金色に輝く真鍮の弾丸を投げ合って、でかいこぶを作ったりしていた。

「社保」からの電話のお陰で、そんな記憶が鮮明によみがえってきた。

厳しく訴追されている「消えた年金記録5000万件」。
厚生年金80年の歴史と聞く。その間の国民加入月累積合計件数はどんな数字になっているのだろうか。
5000万件とは膨大なようで数字の魔力かもしれないが、その5000万件の1件が私のであったとは全然思ってもいなかった。
当人も忘れていた記録をよくぞ見つけてくれた、と感謝すべきだと思う。

実はその外にも何度か小さな職場に在籍していた事があったことも思い出した。「大日本時計」は現在の「CTIZUN」。大会社である。だからこそ発見できたのか、とも思う。

それにしても、国敗れても軍人恩給を支給している日本国である。若い人の将来の年金支給を期待しても良いとも思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«洞爺湖・・・というと