何を今頃タクシー券i

今を牛耳るIT社会。そんなの関係ない、その昔。

大蔵省主計局。
来年度予算内閣発表ともなると、泊り込みとなる。

椅子を並べて横になる。用意のいい奴は寝袋を持参して、コンクリの部屋の床に寝転ぶ。
本筋は霊安室で仮眠をとるようにはなっていた。

地下に風呂と仮眠室の施設があり、その窓もない小さな仮眠室を、霊安室とよんでいた。
小さいからすぐに一杯になる。そこでどこでもいいから横になれるところで仮眠していたわけだ。

何しろ閣議を徹夜でやっているのだから、何が起こるかわからないので、担当している役人のトップから下っ端まで帰るわけにはいかない。

私なんかは下っ端も下っ端。地下の印刷室の担当作業員だった。それも、コピー器なんて勿論、今をときめくITシステムなんて全然関係ない、ガリ版かまたはタイプ印刷である。
だから今なら誰でも出来る複写プリント作業が、専門家でないと出来ない、というわけで毎回つき合わされていた。夜中だろうが、夜明けだろうが。

終わった! そこでタクシー。タクシー券は気前よくれた。

みんな国のためにやっていると言う自負があるから罪悪感なぞ全然ない。増してや税金の無駄遣いなんていう発想がある筈もない。

終電の前でも、初電があってもタクシー券を貰っていた。夜中にタクシーでいったん帰って、又タクシーで役所へ来た、何てこともあった。
でも、霞ヶ関のビル街にタクシーがとぐろを巻いている風景は全然なかったし、あまり知られていなかったのか、誰も何にも言わないし、マスコミの一矢もなかった。

田中・福田・竹下・橋本大蔵大臣の頃、いやそのずーと前からだったのだろう。
政治屋は利権と権力の争奪に没頭して知識と資料は役人に頼っていた。

議会が開かれるたびに何百ページにも亘る「想定問答」が夜を徹して作られていた。
その時もタクシー券をもらったっけ。

お上といわれる、お役人の治外法権。
大昔からの「知らしむべからず、寄らしむべし」の伝統。
経済発展する中での世間の鷹揚さ。
何よりも、官僚といわれるエリートの頭の良さと反比例する常識とモラルの低劣さ。
上げれば切がない。

何を今頃タクシー券!
おそいぞ!

幸いにも、今やIT社会。
官僚の悪しき慣習を、民に知らしめて、知らしめて、民の声で叩き壊す。
そのきっかけともなれば遅くはない。

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後期高齢・還暦同窓会

梅雨時の雨上がり。

還暦同窓会と称する同窓会が招集された。60歳になったから還暦・・・ではない、高校出てから60年で還暦。

座れないから椅子。聞こえないからでかい声。

忘れちゃならないと、おき場所を確認していても、必ず忘れる杖と補聴器と眼鏡。

だが、お前は誰だ・・はなかった。

旧友である。遠い昔のことは覚えている。

あの戦争も、飢餓地獄も。

特攻隊の生き残り、満州帰り、戦災孤児、昔懐かしき単語が並ぶ連中である。

新宿高校定時制有志還暦同窓会であった。

その昔通いなれた新宿。武蔵野館裏の闇市。角筈のバラック。三越どおりの露天商。

今は、鋭角的に切り裂かれた空間にビルが立ち並び、地下道が縦横無尽にはびこって、ゴキブリのごとき触角がなければ方角も分からない。

副都心と言われてとてつもなくでかくなったわけだが・・・われら還暦高校生は、そこはかとない侘しさも感じている。

敗戦直後の日本のドン底時代。新宿高校定時制の生徒は、1000人を超えていた。おそらく世界一の夜学校であったと言っても過言ではない。

進駐軍払い下げの脱脂牛乳をすすり、海藻麺をむさぼって、殆どガラスのない蛍の窓の教室で、夜5時から9時まで。
みんなが同じ様に貧しく、苦しかった。だから皆で同じ様に明日を見て頑張っていた。

その歴史ある定時制高校が本年3月を持って廃校となった。

入学志望学生がいなくなった。ということは恵まれたよき時代。よき日本となった「あかし」ともいえる。喜ぶべき事であろう。

これもまたわれら還暦高校生は、そこはかとない寂しさを感じている。
この国がどん底から這い上がってきた渦中で、いささかなりとも貢献したという自負は、還暦高校生皆持っていた。

そして、今後いささかなりとも国に貢献できる事は、死ぬ事。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

なんてとんでもない結論となって、お開きとなった。

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不発弾

朝日新聞19日付

「東京都調布市で見つかった戦時中の不発弾を処理する作業が18日にあった。半径500メートル以内が警戒区域となり、午前9時半から住民1万6500人が避難した。自衛隊が信管を除去し、11時36分に安全宣言を出した。国道20号が約1キロにわたって封鎖されたほか、京王線も区間一時運休した。不発弾は長さ約1.8メートル、直径約60センチの1トン爆弾。戦争末期の45年4月、日本戦闘機の体当たり攻撃で墜落した米軍爆撃機B29が搭載していたと見られている。」

丁度、この記事を解説するかのようなテレビが放映されていた。

落ち着いた表情で粛々と避難してゆく住民の姿。静まりかえった広い道路と綺麗な街並み。
このところ、連日報道される「四川省大地震」の街並の惨状とだぶって、警戒区域避難とはいえ、いかにも平和な余裕ある佇まいを感じさせた。

だが、さすがに命がけの自衛隊処理班員の横顔は、緊迫した状況を表現していた。

記事のニュースソースとなったのだろう、現在77歳、当時中学2年生だった岡田敬造さんという方の、63年前の日記が紹介されていた。

昭和20年4月7日午後1時ごろ、米軍爆撃機B29の編隊が東京を空襲した。中島飛行機武蔵野工場を狙って、調布上空に差し掛かったとき日本戦闘機が体当たりした。その状況を目撃して日記に書いてあったのだと言う。

画面に映されたその日記は、粗末な紙を綴じこんだ、変色して古色蒼然たるもの、スケッチまであって克明に書かれている。今や貴重品である。

岡田さん。
「スーとぶつかっていく線が見えて、あとにB29がばらばらになってゆっくりと落ちていった」

その通りである。
実は私も目撃した。もっとも時も場所も違ってはいたが。私も当時中学2年生。日記も付けてはいたけれど、焼け出されて何もない。

20年3月10日の東京大空襲で焼け出される前の浅草で、昭和19年11月の昼間、澄み渡った青空にB29の大編隊がきらきらと光りながら、西から東へと飛んでいくのを見上げていた。
突然スーと上から下へ細い線が走り、そのあと一番端のB29が、翼をちぎられてゆっくりと落ちていったのが見えた。
やはり体当たり報道がなされていたし、操縦士は落下傘降下で無事だったとは聞いていた。

空を見上げながら岡田さん。
「平和の空はいいなあ。
 あのときの空は死闘だった。
 もう二度とあんな空は見たくない。」

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母の日の残影。

母の日、来た来た、ワイワイガヤガヤ。
花持って、ケーキ持って、ドリンク持って、靴下持って、膏薬持って、孫8人。
を引き連れた娘や息子。

我が妻の、幸せとはこのこと、と言わんばかりの破顔。
平成の御世の平和のありがたさ。

我が母は、明治の御世の、日露戦争勃発の年に生まれた明治の女。
大正デモクラシー。赤いはかまの女学生。
第1次世界大戦。関東大震災。シナ事変。
第2次世界大戦。息子の出征。東京大空襲全焼。夫死亡。
敗戦。飢餓地獄。
明治36年生。昭和39年没。享年60歳。

明治の母はたくましかった。
大正の母は華やかだった。
昭和の母は悲しかった。

平成の母は?

この日、丁度定年を迎えた私の知人。
「母の日に、花束持って、父帰る」

さて、父の日はどうなるのだろう。
あれ、父の日って、あったんだっけ?

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オリンピック中華リレー・・・聖火今昔物語

1936年。ベルリンオリンピック。聖火リレーは、このオリンピックから始まった。
「民族の祭典」だったか、幼少の頃、千住大橋館とかいう映画館で、躍動する画面に手に汗握る思いで感動しながら見た記憶がある。ヒットラーなる勇ましい姿、ハイルヒットラーと叫びつつ手を上げる一糸乱れぬ群集の姿にも、魅せられていた記憶がある。

次回のオリンピック、1940年。ベルリンの次は東京と決定されていた。
戦争で中止。日中戦争。いわゆる支那事変である。

1964年。東京近郊の仲仙道の歩道で、母と、生まれたばかりの娘を背にした妻と、私の一家は、小旗を振って聖火を迎えた。ランナーは手を振り大きく笑いながら、すぐ身近をゆっくりと走っていった。

この東京オリンピックを迎えるに当たって、日本は国を挙げて、まさしく努力した。
新幹線の開設。高速道路の拡充。など、など。敗戦国の日本は、東京オリンピックを契機に、目覚しく発展した。そして・・・・。
やがて、Japan as Nanber One などとおだてられ、のぼせた挙句が、バブル崩壊。
それどころか、昔ながらの日本人の心、の崩壊。 

明治女の母は亡くなった。日本の未来を信じ、がむしゃらに走った、若かった頃の友や自分の姿が、眼に浮かぶ。・・・・今や残骸である。

2008年。今年、北京オリンピック。烈火リレー。
テレビでたった今、見ていた。
厳重な警備の輪に囲まれたランナーが、緊張しながら、無理に笑って走っている。ご苦労様。

中国は、昔から大国であるが、いわゆる先進国に追進して、近代国家として発展し、世界の大国となるべく懸命になっている。
かっての日本と同様に、北京オリンピックは重要な契機となるのは間違いない。そのためには、北京オリンピックを成功させるために努力するのは当然である。

だが、国の発展とはなんだろう?

金を儲け、ビルを建て、道路を作り、外観を整えて、世界に覇をとなえるため。など、など。だろうか。

世界中の国々の聖火リレーの沿道で、団体を組んで、でっかい5黄星旗をはためかし、国家を斉唱する。
これでは中華リレーである。

これは、100年ほど前、国の煽動にのって、日本の民衆がよく行っていた風景でもある。

オリンピックは世界のイベントである。今回の担当は中国となったもの。この責任ある担当を全うするには中国は未熟であるといわざるを得まい。
ましてや、権力によって国家統一するために、口を塞ぎ、耳を塞ぎ、目を塞ぐ・・・。までして。

中華人民共和国は、人民のための国である。
中華人民共和国のために人民があるのではない。

今の、夢を失った日本でも、最高にいいことは、何でも言えて、何でも見られて、何でも聞けることである。

 

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ウンテンシュ ハ シンデモ ブレーキ ヲ  アシカラ ハナシマセンデシタ 

キグチコヘイ  ハ テキノ
タマニ アタリマシタガ
シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセン
デシタ

これは、尋常小学校修身教科書巻一児童用(大正7年文部省制定)10頁目。
最初のページには、
テンノウヘイカ バンザイ
とあった。

ガス ガキタ キガツイタ ヘイ ハ 
ガスマスク ヲ ツケタ
ダガ ヘイ ハ ラッパ ヲ フク ニンム ダッタ
マスク ヲ トッテ イキ ヲ スッテ ラッパ ヲ フイテ 
シンデモ ラッパ ヲ クチカラ ハナシマセン
デシタ 

これは、大正13年ごろの「第一次世界大戦」のドイツの修身教科書・・・にのっていたかどうか、全然定かではない。が実話とされている。当時の戦場では頻繁にに毒ガスによる戦が行われていた。

キグチコヘイは突撃ラッパ。
全員突撃して死んでいった。

ドイツ兵は毒ガス警報ラッパ。
ほかの兵は生き延びた。

昔、戦場の伝達手段として、ラッパは重要なツールだった。
「死ぬためのラッパ」と「生きるためのラッパ」。
まるで反対の結果ではあった。

今、4月15日。朝日新聞「天声人語」より
「東名高速道路で,大型トラックの左後輪の一つが外れた。重さ100キロのタイヤは中央分離帯で弾み、対向車線を走ってきた観光バスに飛び込む。その日が誕生日だという運転手の関谷定男さん(57)が亡くなった。41人乗りのバスが横転でもすれば大惨事になるところだったが、スーッと止まったそうだ。確かな技量と人柄で、客の指名も多かったという関谷さん。人生の最後にかけたブレーキが、多くの命を救った。プロの仕事である。」

セキヤサダヲウンテンシュ ハ
シンデモ ブレーキ ヲ アシカラ ハナシマセン
デシタ

人は誰でも死ぬ。だが死んだ経験を持った人はいない。死に方の是非を問われても誰も分からない。 

戦争と平和。昔と今。時代と状況の是非を問おうとも、この個個の人達の、死の瞬間に取った責任ある行動は、まさしく賞賛に値する。

この賞賛に値する個個の人達を死なせた責任は、誰が取るのだろう。

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サイタ サイタ サクラ ガ サイタ

今は昔。小学校国語読本巻一の2頁と3頁の見開きに大きなカタカナ。
  サイタ 
  サイタ 
  サクラ 
     ガ 
    サイタ

私はhanasaka23花咲爺さん。つまり本年78歳の爺であるということだが、婆さんが重症の花粉症なので、お花見に久しく行っていなかった。
今年は早咲櫻に誘われて、10年振りに東京近郊の大宮公園へと、「おでまし」とあいなった。

ゴザしいて、まずは「花よりビール」。缶ビールをあおいで見上げる空は。
天気晴朗。青空をバックに満開の桜のピンクの絨緞。そうだ、これが「花曇」と言うのだな、と感じ入りつつ隣に眼をやると、お若いカップルが青いシートの上で、きちんと正座して向かい合っていた。
真ん中に手作りのお弁当、玉子焼きとソーセージ。昔も今も変わらない、まことに微笑ましき平和なシーン。なぜか、婆さんが、涙ぐんで見ていた。
「さまざまなこと想い出す櫻かな」

小学校国語読本巻一 4・5・6・7頁
  「コイ コイ シロ コイ」 
  「ススメ ススメ ヘイタイ ススメ」
  「オヒサマ アカイ アサヒガ アカイ」
  「ヒノマル ノ ハタ バンザイ バンザイ」

昭和12年、小学1年生の私のクラスの先生は間もなく「ヘイタイ ススメ バンザイ バンザイ 」と、出征していって、帰ってこなかった。

「散る桜、残る櫻も散る桜」
「櫻さき、散らされた跡に大鳥居」

櫻と人で大賑わいの大宮公園。その隣にある「埼玉護国神社」にお参りした。
人影はなく、鳥居の上に大きな櫻が一本、ひっそりと咲いていた。

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後期高齢医療保険加入者第1号?の死・・・

4月1日、友が死んだ。後期高齢医療保険加入初日であった。享年81歳。

大企業のサラリーマンを長年勤め上げて、60歳で定年退職。
退職金2500万円。厚生年金、月24万円。以来21年間。悠々自適の年金生活。
ではあったが・・・緑内障。脳梗塞後遺症。片足麻痺。前立腺肥大症。等々とあって、病院通いの傍ら、店にやってきては私に代読と代筆を託していた。

眼が見えない、体が不自由、とあってイライラするのか、人の世話になりながら、気に食わないと毒ずく、という、最近の障害者に時折見かける、被害者意識の傾向が強かったので、大喧嘩をした事もあった。
しかし、なかなかのインテリで、「日記、コラム、つぶやき」まで口述筆記を依頼されるようになり、生活状況、思考、苦悩・・・などを知るようになって、私自身の優越感や我儘を反省したりした事もあった。

後期高齢者医療制度が始まって、加入したばかりの死亡者であった。
以前の国民健康保険の彼の医療費明細も代読していたが、毎月30万円近く、年間300万円に達していた。年金、障害手当等合計すれば一人の老人が、年間700万円の保険給付、いや税金からの給付を受けていたわけである。
税金納付額は、収入が年金だけだから健康保険も含めて20万円程度。差し引き680万円の国庫負担である。

このような状況の老人は、当然のごとく一杯いるから、保険制度の改革が必要だったのだろう。

去年も、旧友が死んだ。
この友は、心臓麻痺で突然死だった。76歳。自営業だったし、ろくすっぽ納付しなかったから年金給付2万円。だけど健康保険は家族を思えば滞納できない。ところが当人は医者にかかったことがない。医療費は全然使わずに死んでしまった。

「保険」とは、何かあったら困るから、かけとくもの。もともと、長い人生、保険金なぞ貰わないですんだほうがほうが幸いなのだ。という。

どうも、「後期高齢者医療保険」は違うようだ。

老人は、医者にかかって医療費を使おうが、医者にかからずポックリ死のうが、人生、先は長くない。だが「後期高齢者医療保険」は強制加入である。
医者にかからなければ損をするということになりそうだ。病気にならなければ損をするという事になりそうだ。

そもそも、病気なぞしないように、健康に留意。死ぬまで健康。死ぬときゃ長寿でポックリ。
これが幸せな生き方の基本というものだろう。
老人の病気を、無闇に癒すための医療だけではではなく、予防医療とでもいうのだろうか、健康を維持し病気にならないための医療。そのための「後期高齢者医療保険」であって欲しいものである。

かって老人医療を称して「老人の過保護は、自然破壊である」という、まことに勇気ある発言を聞いた事がある。

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ギョ!アダルトサイトを開けちゃった・・・ブログの落とし穴

あ!俺のブログにトラックバック。
コメントどころかアクセスもない俺のブログに、トラックバックとくりゃあ、こりゃ開けちゃうよなあ。

そんなところで、あくせくと、じゃあないけど、全然疑いもせず誘導されるがままにトン、トンと、アクセスしてしまった。

「お客様の会員登録が正常に完了しました」
「今なら特別会員資格!キャンペーン期間中(2日以内)のお振込みで、今だけ¥90000を>>¥50000」
それから、
「重要事項・あなたの情報」 として、IPやネットワーク情報の細かいわけの分からない数字が連綿と、おどおどしい赤黒青のでっかい画面で、6ページにわたって次から次へとでてきた。

自動的にでてくるんだから、ただ見ているほかない。

最後に
「会員登録されたにもかかわらず、ご利用料金のお支払いがない場合など、悪質と判断されたお客様には、取得いたしました情報を元に法的な対応とらせていただきます。お客様のご自宅・職場・ご契約プロバイダーに直接ご連絡いたします。
また、お支払期限の過ぎたお客様には下記の文面にてご請求葉書を送らせて頂きますのでご了承下さい。」

その請求葉書なるものは、そのものずばりのエロ写真葉書で、個人特定登録情報と銘打って、
「あなたのIPアドレス、ブロバイダー、OS、ポート番号、個人認識番号」
などなどの項目が並んでいる。

なんだこりゃ・・と、眼パッチリと口アングリ。
思いもかけない場面の連続なので、瞬間的に身体が固まってしまった。

ところが、身体が固まってしまったのが良かった。なんにもしないで、そのまんま閉じてしまった。もっとも「対策のための資料」と咄嗟にひらめいてプリントをしておいた。これもまた良かった。

瞬間的には誰でもビビルだろう、なにしろ相手は脅しのテクニックを身に着けたその道のプロに違いない。誘導の手口も、私自身どうして入ってしまったのか覚えていない。勿論私の意思でも興味でもない。

先日、
熊谷のマラソン大会でランナーを誘導する車の次にパトカーが走っていて、パトカーがコースとは違う道に入っていったら、続くランナー達はパトカーについて行ってしまって、800メートルも多く走ってしまった。
というのがニュースになっていた。

このような状況を作為的にやられたのである。
騙しと脅し。詐欺と恐喝。明らかな犯罪である。

巧みに誘導されて興味を持ってしまって自らアクセスしてしまったとしても、開かれた文面は脅迫状そのもの。続く文面はまさしく恐喝である。逮捕状の発令される重罪である。

私は、早速、そもそもブログから始まったことなので、プロバイダーの相談室に連絡してみた。若い女性の声ながら、親切に長い事かけて、その対応について応答してくれた。

1、画面の誘導ポイントを絶対にアクセスしない事。
2、メールの疑わしきは開かない事。
3、無視する事。
4、ほっとく事。
5、何かの変化を感じたり、何か言ってきたら、公的機関に通報する事。

公的機関とは、勿論警察が主体だが、ほかにもいろいろなところに一杯あった。教えられたいくつかのインターネットを開いたら、その対処方法と、対策システムについて、縷々と説明されていた。

要は、どこでも「通報を待っている」ということ。状況調査、資料収集。犯罪者逮捕の強権発動のためにも、「被害者の通報」があってこそ。ということである。
相手は犯罪者である。やられたら直ちに通報しよう。

わたしは、すでに幾重にも面の顔の厚くなった0077の爺である。だから、すぐに開き直って、ご開帳できた。

若い真面目な新入社員だったら、一人思い悩んだかもしれない。
このくらいの金で済むのなら・・一瞬の迷いが一生を左右するかもしれない。
相手は犯罪者なのだ。負けないで、徹底無視。又は徹底ご開帳。といこう。
少しの勇気を持てばいいのだ。

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東京大空襲3月10日テレビドラマ・・その火の中に私もいた

確かに見た。黒い夜空の空中に炸裂する花火。赤い、そして太いしだれ柳となって広がって落ちてきた。モロトフの花籠、ばらまかれた38発のスナック・ナパーム焼夷弾。

テレビのシーン通り、その瞬間の情景が鮮烈によみがえってきた。

テレビでは焼夷弾が胸に刺さってのけぞって倒れるシーンがあったが、これはありえない。直撃されれば身体は吹っ飛んでしまっただろう。
何しろ、空から降ってきたのは長さ60センチ直径15センチぐらいの6角形の厚い鉄筒である。

だからアスファルトの道路に落ちたのは、パカーン!という、ものすごくどでかい乾いた音がした。我が家の前は市電が通る大通りだった。

向かいの家の軒下から火が噴出してきた。
パカーン。でかい音ばかり。人が走るが声は聞こえない。

逃げろ。逃げろ。
何しろ天から火が降ってくるんだから。天の声なんだ。
兄はトランク、わたしはリュック。母は風呂敷。妹はランドセル。

母と兄と妹、そして中学3年15才の私。兄は海軍兵学校に合格して江田島へ行くくことがきまっていた。妹は一週間前に学童集団疎開先から帰ってきたばかりの国民学校6年生。

夜中なのだが明るい。一塊になって逃げた。火のないほうへ。
いくばくかの空き地にたどり着き、一息ついて見回した。沢山の人と荷物、母が「ここは駄目!」 母は関東大震災の体験者であった。

頭によぎった。先日、爆弾が落ちて空き地となったところ。しかもそばに墓場がある。千住回向院の墓場である。そこへ!

途中、火の中をくぐった。だが炎は見えない、息が出来ない。煙? いや酸欠状態だったのだ。立って走ったら窒息してしまうから、腰をかがめ頭を地面にこするようにして走った。

テレビのシーンでは、立って走り身体に火がついて転げまわる人たちの姿が、頻繁に見られたが・・・。実際は、窒息か、二酸化中毒か、瞬時に倒れた人が殆どだったのではないかと思う。

「首切り地蔵の頭が紅の炎の中に燃え上がって見えた。土手上の枕木が火を吹いていて、向こう側の千住回向院の大地蔵の顔を浮き上がらせていたのだ。江戸時代の小塚原刑場跡、回向のための大きな石地蔵、通称首切り地蔵。その墓場の石塔に私はしがみついていた。火の粉混じりの突風が頭上に渦巻いていた。恐怖の一夜が明け、あるはずのない家路に向かう道すがら地獄を見た。馬が丸こげとなってひっくり返っている。人が虚空をつかんで黒こげとなっている。そしてあの空き地には・・沢山の人が重なってこげていた。我が家の焼け跡にたどり着いたとき、母が大声を上げて泣いたのを思い出す。」

かって書いた手記を読み返してみた。テレビのシーンとフラッシュバックして、あの悲惨な映像が鮮明に浮かび上がってきた。

「こととひばし」の惨状。
いくら「愛」をテーマにしたとはいえ、「君の名は」の「数寄屋橋」とは違う。この悲惨さの前に「愛」のテーマは吹き飛んでしまった。よくぞ画いた、と思う。

「もう殺さないで」と叫びつつ死んでいった人たち。
その後生き延びた被災者のそれぞれの人生。それは又別のドラマである。
私のようにただ生きてきただけの老人にも、孫が8人いる。あの時死んでいたら、この孫8人はいなかった、ということになるのも、人生だ。

それにつけても、無差別絨緞爆撃なるものを企画し実行したカーチス・ルメイ大将なる当時のアメリカ空軍参謀総長に対して、「我が国防衛力の拡充強化に関して、米軍の対日協力、援助に寄与した」として、昭和39年12月7日、内閣総理大臣 佐藤栄作、そして裕仁大日本国璽入りで、「勲1等旭日大綬章」が送られている。

自国民が大量に殺されたその国のトップが、大量殺人の張本人に勲章。このなんとも不可解な馬鹿げた事項に関してテレビは全然触れていない。
10日当日放映されたドラマは少し触れていたが・・・。

昔のチャップリン映画のラストシーン。
「一人殺せば犯罪者だが、一万人殺せば英雄だ」。

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