お彼岸のUNKOとUKON

春のお彼岸。「本日休業」の札をドアにぶら下げてお墓参りに出かけようとした。

「この店ウンコ売ってるよ」通りかかったガキが大声を上げた。
当店は健康食品ウコンを売っているのでウコンと大きな字のビラが貼ってあった。

そうそう、去年の秋のお彼岸の墓参り。

息子の家族、孫共々総勢8人、でかい車でご先祖様に会いに出かけた。
箒目のついた境内、隅々まで清掃された墓地、磨かれた墓石の前に供え花。

昔、墓地には防空壕が掘られ、墓石は柱となり、卒塔婆は燃料となった・・・・

そんな思いが頭をよぎる爺をよそに、孫どもは、水をかけ線香を捧げながら、はしゃぎ廻っていた。
突然・・「くさい! くさい!」・・・「ウンコ踏んじゃった」。

爺婆も乗っけてやるんだからと、若造サラリーマンの身で、でかい車を買ったばかりだった。
その新車にウンコを踏んだ足ではいられてはたまらない。しかもゾロゾロと4人も。
お墓参りにイヌを連れてきた人を呪いながら、懸命に息子と嫁は4人の足と靴を洗っていた。
帰りの車の中で、孫どもの大合唱
「ウンコふんじゃった。ウンコふんじゃった」。
苦りきった息子に、ばあさんが言っていた。
「皆に運がついたんだよ」。

なんて、クサイ事件を思い出したが、話したいのはウンコの話ではない、ウコンの話。

ウコンの効能については、今更言うまでもない。
クルクミン、ターメリック・・・腎臓・肝臓強化、糖尿病予防・・・等々。

酒飲みのこの爺が、その効果にハマッテしまって、自分の店で販売を始めたのが5年前。
以来、結構多数の方にご利用していただいている。

薬じゃないから「効く」とはいえないし、「効き目」はすぐには分からない。
長くとりつづけていると、体が感じてくるのだ。
だから、ご利用の方々は既に幾星霜もの顔馴染みとなっている。

こりゃ、自分がハマッテいるのだから口上がきりがない。
詳細はマイショップHP http://kotaka.warabi.biz

さて、次は春のお彼岸の墓参り。

お供え物として「おはぎ」をもって出かけた。
今度は、アンコである。
ウンコがウコン。ウコンがアンコとなった。
そこでまた・・・・・。

長くなるので、お次の話としよう。

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ホームページ設立ジタバタ奮闘記

このブログには大分ご無沙汰してしまった。
実は年末の忙しさに加えて今度こそホームページを立ち上げようとジタバタしていた。「趣味人倶楽部」という「高齢者SNS」に参加して、これが結構楽しいので気をとられていた、という事もある。
元祖であるこのブログを、おろそかにしてはならない。と、気を取り直して、まずはHP設立ジタバタ記。

今年正月。漸く念願のマイショップ・ホームページが設立された。

3年前、ホームページビルダーをインストールしてヨーイドン。
各地の商店街から聞こえる恨み節。当地も例外ではない。大店に押しつぶされて生きるすべを失っている小さな店でも、少しでも活路を求めてIT社会へ。インターネット参加への志を抱いたのは、この時代むしろ当然であろう。

楽天、ヤフー、新興サイトからいろいろ誘いがあるけれど、何しろ街の小さな店。丸抱えで契約するには大層な金がかかる。第一、店にITが分かる人間が居なければ、連携にしても維持にしてもどうにもならない。といってITエンジニアの担当者などおけるわけがない。

というわけで老骨に鞭打っての必死のヨーイドンとなったわけである。
けなげにも生涯大学のお勉強とも考えて、懸命にホームページビルダーのマニュアルに取り組んだ。

ココログが元祖だから当然niftyにお世話になることにして登録申請。
ありがたくもhttp://homepage3.nifty.com/kotaka/とURLを頂いた。
さあ頑張るぞ!

ポータル、サイト、ページ、リンク、エフェクト・・・・
悪戦苦闘、なんとかポータルと営業形態を一応掲載したところで 息が続かなくなった。老人の生半可な知識で追いつけるわけがなかった。最初の意気込みはしょぼくれてきて、途切れ途切れとなり、ついに諦めて放置状態となってしまった。

助け舟が現れた。お隣といっていいくらいの近所で、地域密着ホームページ作成支援サービスと銘打ってサイトを立ち上げた若者が現れたのだ。
大学院卒、富士通関係でITシステムを経験して独立した若者だった。渡りに船。
しかも、ここだけの話しだが、1番だから料金を負けてくれるという。

そこで新たにホームページを立ち上げてもらった。

http://kotaka.warabi.biz/

やはり若い力は素晴らしい。格安の月額費用でありながら、新進気鋭で懸命、豊富なIT知識で面倒を見てくれる。
近所という利便性もある。地域密着型のサービスサイトの有効性はこれから認識されてくるに違いない。
この若者のサイトをご参考までに記載しておく。

http://www.total-office-net.com

期せずして、ホームページが二つ出来た事になった。今後残り少ない人生ながら奮励努力して、アイテム選別などで両立させたいと、贅沢な思いをさせて頂いている。

  

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年賀葉書印刷

年賀葉書印刷。

映画「3丁目の夕日」に出てくる街の小さな印刷屋は、活字を組んで手作業のテキンという印刷機で一枚一枚印刷していた。

父ちゃん母ちゃんの家内作業の手間賃稼ぎ。

だから大手の印刷会社は、年賀印刷なぞ見向きもせず、お義理のサービスとして受けたものを下請けにやらせていた。

だが、小さな印刷屋にとっては、有難いボーナス仕事であった。

それが、このパソコンの普及、IT時代となって、マスメディアにのった年賀印刷は、労少なくして功多しのおいしい仕事として、大手の印刷会社がシステム化、コンビニやスーパーを窓口として街の小さな印刷屋の仕事を吸い取ってしまった。

誰やらが唱えた、規制緩和、弱肉強食の自由競争、その結果の格差社会の一例ともいえよう。

この恨み節。
うなる資格を持っている私は、つまり街の小さな印刷屋のオヤジである。

街の小さな印刷屋として40年、さすがに活字やテキンは、長い間有難う、と処分した。

パソコンやプリンタはつい最近出てきたばかりである。
我輩!は40年のキャリアを持つ印刷屋である。

と、わが身を嗾けながら、今やパソコンとプリンタを駆使?して、今回も年賀印刷を承わっている。今年はお客様がどれだけ来てくれるだろうか、と思いつつ。

ところが・・・小さな印刷屋は昔ながらの職人仕事、個人の好みに合わせたきめ細かいご注文には、もともと応じて来たことだが、これがマスメデアには出来ない。これが見直されてきたのだろうか。

そしてまた、個人作成は、趣味で作るのは別として、印刷屋に頼んだほうが安い計算になる。ということなのか。

常連のお客様は死なない限り毎年必ず来てくれている。
だが、新しいお客はこないので毎年減っていくと半ば諦めていた。

それが・・・増えてきている。

元気が出てきた。
年賀の作成。プリント。ご予算。その他・・・。
何でもご相談をお受けしたい。ご連絡あれ。

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コスモス・・・・旧立川陸軍飛行場

今時の電車は、至極快適。その快適電車の青梅特快に新宿駅から乗車して30分、西立川駅に着いた。
コスモスの昭和記念公園。駅のまん前から陸上橋で公園入り口まで直結されている。

快晴に恵まれた秋の一日。入場券売り場には長蛇の列。大人400円、子供80円。国立公園だから安いことは安い。そして・・・広い。何しろ飛行場だったんだから。

旧陸軍立川飛行場。1922年、帝都防衛構想の中核として設立。民間飛行場としても利用され、東京~大阪の日本初の定期航路、そしてあの神風号の出発地ともなった、という。

神風号。特攻隊ではない。
1937年、東京、ロンドン間を100時間を切る世界記録を達成した朝日新聞所属の民間機である。
当時、日本中で大騒ぎしていた様子が眼に浮かぶ。小学校一年生であった。束の間の平和のひと時、ヒーローとなった飯塚操縦士という名前も記憶にある。

立川飛行場は、もともと帝国陸軍飛行場である。
戦争末期にはB29への体当たりを目指した、神風ではない震天という特攻隊が編成された、という話も聞かされた。

そして戦後。
アメリカ空軍立川基地。フインカム基地。砂川事件。横田基地設立・・・。幾多の変遷を経て、1977年、日本政府に返換。跡地の東一帯は立川防災地域として自衛隊をはじめ防備・防災関係の各官公庁の施設が設立された。
飛行場の跡地の中央部に、昭和天皇在位50年を記念して作られたのが国営昭和記念公園というわけである。

コスモスの丘は一番奥。とにかく流れる人の波について歩いた。
結構広い。これが、かっての飛行場の一部だというから、飛行場とはどでかいものなんだなと感じつつ、同時に昭和の森となったどでかい木々は、当時はなかったはずだと、戦後の歴史を感じたりもした。

コスモスの丘。色とりどりの花の絨緞が一面に敷き詰められている。
一本ではか細い花も、群生すれば周囲を圧する見事な存在感。自然を生かす手入れも大変だろうと感じつつ満喫した。

やっぱり陸軍飛行場よりも、コスモスの記念公園のほうがいいのは間違いなかった。

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コスモス・・・ケイタイとサイフ

天高く馬肥ゆる秋の一日。

私は馬年でメタボ。天高くなくとも肥えている。妻の名は、どういうわけか、桃。馬と桃が、コスモスランク・ワンレベルの昭和記念公園に向かって勇んで出かけた。

電車で新宿経由で立川まで。今時の電車はすこぶる快適である。

終戦直後。
メインの山手・中央・京浜東北各線は確保されてはいたが、車両が空襲で焼けて徹底的にたりない。しかもガラスがないから窓はただの穴。穴だらけの車内は鉄がないから板でやたらと打ちつけての補強。ドアもないから板を横に打ちつけて下からくぐって出入りしていた。
地震で揺れる古い家屋のごとくグラグラときしみながら、走っていたオンボロ電車。

そんな想い出をたどりつつ、いつしか眠ってしまったらしい。
「本日はJR東日本にご乗車くださいまして有難うございました」とアナウンス。この電車の終点は新宿。これから乗り換えである。

ホームで見渡すと、桃がない。車内に眼をやるとポツンと鎮座している。
「オイ降りろ!」と叫ぶと、飛び出して言うには「何でここで降りるのか」・・・?
新宿の手前の池袋だった。あわてて又電車に飛び乗った。

「ご乗車有難うございました」のアナウンスのせい・・年寄は人のせいにしてよいのだ。
とにかく、冷や汗をかくくらいあわてた。

だって、馬はケイタイなんて持ってないし、サイフも持ってない。桃とはぐれたら行き倒れだ。

新宿駅で降りての乗り換え。迷路のごとき駅構内。
馬と桃、爺と婆は手を繋いで歩いていった。人前で手を繋いで歩く・・・なんて初めてだが、必死の思い。その思いが通じたらしく、親切な若者に教えられ、快適新鋭電車、青梅線特別快速に乗車、立川へと向かった。

インドアではケイタイもサイフもイラナイ。

アウトドアでは、馬と桃。爺と婆。
ケイタイとサイフ。持つべきか、持たざるべきか。

Tobe Or Not Tobe
目下苦脳中である。

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消えた年金発見始末記

通知を受けて、社会保険事務所に出向した。

爺婆同伴。この歳になると2人で1人前・・・にもならないが。

浦和社会保険事務所だから、当然の如く浦和駅で降りて歩いていったら、いつまで歩いてもない。通りすがりの若い綺麗なBGに聞いたら北浦和駅だとの事。年金手続きに昔何度か行っていたので、知ってるつもりの思い込み。

「思い込み」。歳をとるとこれが多い。それを気がつかずに年寄りは事があると、やたらと人のせいにする。
浦和事務所がなんで北浦和なんだ、と。私はそんなことは言わない。
自分で反省しているのだから、まだ私はましな年寄りだと、これまた自分で弁解しつつも、気みじかの婆さんの怒ること。

婆さんだけではない、年寄りは大概気が短い。何しろ先がないから。
そこで、「3時間待ちの手続き1時間」と言うメディアのご託宣を、自分に言い聞かせて、それこそ日帰り旅行のつもりで婆さん共々のご出向となったわけだ。

受付の綺麗なお姉さんの親切な事。
広くもないビルの案内図を渡され、チエックされた部屋に入った。がらんとした部屋にお年寄りが10人ほど、1階のロビーには人が一杯いたけれど、ここは
静かな雰囲気で、待たされる事もなかった。

そうだ、調査依頼や説明を求めにきた人と、通知を受けて手続きにきた人とは応対方法が違うのだ。

メディアの言う「3時間待ち」とは前者の人々。予約受付は出来ない、予約だと3カ月後どころか、いつになるか分からないから。
早いもんの順に並んで待つ。有名ラーメン店とおんなじだ。
なるほど、これは現況では仕方ない、と納得。

結果を聞いて驚いた。年6万円の加給、18年間分の追加支給が100万円余。60年前のたった1年間の加入記録が発見された、という事だけの結果である。しかも当人が忘れていた事を見つけてくれた結果で、「消えた年金」騒ぎがなかったらそのまんまだったろうと、感謝すべきだと思った。もっとも誰に感謝すべきか分からないが。

私は商売人で、頂いている年金は国民年金が主体で、同窓の会社定年退職者よりはるかに少ない。もし消えた年金が国民年金だったら1年間位では「屁のツッパリ」にもならなかっただろう。

同年輩の知人達の年金受給月額を問うと、夫婦で50万。一人でもW加給で30万。高級支給で25万。標準20万。国民年金満額6万5千。標準3万。そして0。

それぞれの過去の実績がどうであれ、現実の老人社会には、ものすごい格差がある。これから老人になる人たちよ、これでいいのか。

「消えた年金」を騒ぎ立てるよりも、年金制度の根本的な制度改革こそ重要なのだ。

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「あなたの年金記録が発見されました」

今日、社会保険事務所から電話があった。

「調査の結果、氏名不詳の年金記録のなかに、あなたの厚生年金の記録が発見されました」

60数年前、戦後間もない東京がまだ焼け野原だった頃、田無町の大日本時計という会社に2年間勤務していたという記録である。

私は、まだ呆けてはいないぞ、と日頃我が身に言い聞かせながら威張ってはいるが、完全に忘れていた。

たしかに私は60年前、大日本時計に勤務した。17歳。東京大空襲に焼け出され、医者だったオヤジも死んで、着の身着のままとなって東京府立中学3年を中退し、見習い工として時計製造工場に勤務した。

畑と野原のだだっ広い平地の中に、頑丈なコンクリート平屋造りの工場が10棟程並んでいた。戦時中は軍儒工場で時限爆弾装置や機関銃の玉を作っていたので、防空壕のようなつくりの地下には破壊した工作機械と機関銃の玉が山積みとなっていた。
そんな所にもぐりこんだ私ら少年工は金色に輝く真鍮の弾丸を投げ合って、でかいこぶを作ったりしていた。

「社保」からの電話のお陰で、そんな記憶が鮮明によみがえってきた。

厳しく訴追されている「消えた年金記録5000万件」。
厚生年金80年の歴史と聞く。その間の国民加入月累積合計件数はどんな数字になっているのだろうか。
5000万件とは膨大なようで数字の魔力かもしれないが、その5000万件の1件が私のであったとは全然思ってもいなかった。
当人も忘れていた記録をよくぞ見つけてくれた、と感謝すべきだと思う。

実はその外にも何度か小さな職場に在籍していた事があったことも思い出した。「大日本時計」は現在の「CTIZUN」。大会社である。だからこそ発見できたのか、とも思う。

それにしても、国敗れても軍人恩給を支給している日本国である。若い人の将来の年金支給を期待しても良いとも思う。

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洞爺湖・・・というと

今日のニュースは洞爺湖サミットの大安売り。
世界中の問題を抱え込んで、在庫過剰の叩き売り。
地球温暖化。食糧危機。金融危機。石油高騰。インフレ。投機マネー。etc.

在庫過剰の問題は、なにもかにも、つまるところ金儲けに狂奔している奴等が元凶であることは確かである。
未来も環境も金儲けのためにはなんとも思わない我利我利亡者ども、ぶちのめしたい思いだが、所詮、犬の遠吠え。

在庫過剰の処分は、偉い方々にお任せしておくほかはない。ただしレッテルの貼りかえでごまかさないでほしい。洞爺湖にはうなぎはいない。

洞爺湖・・・というと。
1954年、洞爺丸海難事故。
敗戦からたった9年目。青函連絡船「洞爺丸」は1314名の人員を乗せて、昭和34年9月26日、折からの台風15号を避けて、港内に停泊しながら、波濤にあおられて転覆した。
1314人中たすかったのは169人。
当時タイタニック、サルターに次ぐ世界暦代3番目の大事故と言われた。

今日のニュースではどこも取り上げていないけれど、私のような古い人間は、こんな事を思い出した。
1954年、アメリカ行きともなれば、東京駅のホームで、バンザイ、バンザイと連呼して送られていた時代である。
昭和34年9月24日、私の隣のおじさんは、北海道へ出張。
「行って来るぞ」と勇んで出て行った。洞爺丸遭難事故に遭遇。そのまんま「あの世」へ行ってしまった。享年39歳。

葬儀に参列した。眼を赤くして立ちすくむ奥さんの膝にすがりついていた小学生の兄妹が、未だに眼に焼きついている。あの子達も、今や60歳の団塊世代の筈である。きっと大変な苦労をしたに違いない。葬儀に国鉄のお偉いさんも見えていたようだが、今と違って、格別な保障なぞありっこない。しかも自然災害とかいって。

人災。天災。なんと言おうとも、いつの時代でも、災難は突然にやってくる。
防災。自然保護。果ては地球温暖化防止政索。

われ等庶民は、日常の「小さなしわわせ」を祈るのみ。

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何を今頃タクシー券i

今を牛耳るIT社会。そんなの関係ない、その昔。

大蔵省主計局。
来年度予算内閣発表ともなると、泊り込みとなる。

椅子を並べて横になる。用意のいい奴は寝袋を持参して、コンクリの部屋の床に寝転ぶ。
本筋は霊安室で仮眠をとるようにはなっていた。

地下に風呂と仮眠室の施設があり、その窓もない小さな仮眠室を、霊安室とよんでいた。
小さいからすぐに一杯になる。そこでどこでもいいから横になれるところで仮眠していたわけだ。

何しろ閣議を徹夜でやっているのだから、何が起こるかわからないので、担当している役人のトップから下っ端まで帰るわけにはいかない。

私なんかは下っ端も下っ端。地下の印刷室の担当作業員だった。それも、コピー器なんて勿論、今をときめくITシステムなんて全然関係ない、ガリ版かまたはタイプ印刷である。
だから今なら誰でも出来る複写プリント作業が、専門家でないと出来ない、というわけで毎回つき合わされていた。夜中だろうが、夜明けだろうが。

終わった! そこでタクシー。タクシー券は気前よくれた。

みんな国のためにやっていると言う自負があるから罪悪感なぞ全然ない。増してや税金の無駄遣いなんていう発想がある筈もない。

終電の前でも、初電があってもタクシー券を貰っていた。夜中にタクシーでいったん帰って、又タクシーで役所へ来た、何てこともあった。
でも、霞ヶ関のビル街にタクシーがとぐろを巻いている風景は全然なかったし、あまり知られていなかったのか、誰も何にも言わないし、マスコミの一矢もなかった。

田中・福田・竹下・橋本大蔵大臣の頃、いやそのずーと前からだったのだろう。
政治屋は利権と権力の争奪に没頭して知識と資料は役人に頼っていた。

議会が開かれるたびに何百ページにも亘る「想定問答」が夜を徹して作られていた。
その時もタクシー券をもらったっけ。

お上といわれる、お役人の治外法権。
大昔からの「知らしむべからず、寄らしむべし」の伝統。
経済発展する中での世間の鷹揚さ。
何よりも、官僚といわれるエリートの頭の良さと反比例する常識とモラルの低劣さ。
上げれば切がない。

何を今頃タクシー券!
おそいぞ!

幸いにも、今やIT社会。
官僚の悪しき慣習を、民に知らしめて、知らしめて、民の声で叩き壊す。
そのきっかけともなれば遅くはない。

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後期高齢・還暦同窓会

梅雨時の雨上がり。

還暦同窓会と称する同窓会が招集された。60歳になったから還暦・・・ではない、高校出てから60年で還暦。

座れないから椅子。聞こえないからでかい声。

忘れちゃならないと、おき場所を確認していても、必ず忘れる杖と補聴器と眼鏡。

だが、お前は誰だ・・はなかった。

旧友である。遠い昔のことは覚えている。

あの戦争も、飢餓地獄も。

特攻隊の生き残り、満州帰り、戦災孤児、昔懐かしき単語が並ぶ連中である。

新宿高校定時制有志還暦同窓会であった。

その昔通いなれた新宿。武蔵野館裏の闇市。角筈のバラック。三越どおりの露天商。

今は、鋭角的に切り裂かれた空間にビルが立ち並び、地下道が縦横無尽にはびこって、ゴキブリのごとき触角がなければ方角も分からない。

副都心と言われてとてつもなくでかくなったわけだが・・・われら還暦高校生は、そこはかとない侘しさも感じている。

敗戦直後の日本のドン底時代。新宿高校定時制の生徒は、1000人を超えていた。おそらく世界一の夜学校であったと言っても過言ではない。

進駐軍払い下げの脱脂牛乳をすすり、海藻麺をむさぼって、殆どガラスのない蛍の窓の教室で、夜5時から9時まで。
みんなが同じ様に貧しく、苦しかった。だから皆で同じ様に明日を見て頑張っていた。

その歴史ある定時制高校が本年3月を持って廃校となった。

入学志望学生がいなくなった。ということは恵まれたよき時代。よき日本となった「あかし」ともいえる。喜ぶべき事であろう。

これもまたわれら還暦高校生は、そこはかとない寂しさを感じている。
この国がどん底から這い上がってきた渦中で、いささかなりとも貢献したという自負は、還暦高校生皆持っていた。

そして、今後いささかなりとも国に貢献できる事は、死ぬ事。
「武士道とは死ぬ事と見つけたり」

なんてとんでもない結論となって、お開きとなった。

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